ポーランドを離れ、オーストリア・ウィーンへ旅立ち
1830年11月2日、とうとう母国ポーランドを離れ、「音楽の都」オーストリアのウィーンへ旅立つ日がやってきました。

ショパンはワルシャワ音楽院時代の親友・ティトゥスと一緒に馬車でウィーンに向かいました。
そして、同年の11月23日、ショパンとティトゥスはウィーンに到着しました。
しかし、その頃、祖国ポーランドは大変なことになっていました。
とうとうポーランドの首都・ワルシャワ市民がロシアからの独立のために立ち上がり、反乱を起こしました。
そして、ロシア軍をワルシャワから追い出しました。
ティトゥスは祖国が心配になりポーランドへ帰国しましたが、ショパンはウィーンに残り、音楽活動を続けました。
ここでショパンが帰国してしまったら、家族や周囲の人がショパンをポーランドから離した意味がなくなってしまうからです。
ショパンは祖国のことを心配しながらも、ウィーンで演奏会をしようと知人をあたりましたが、去年と違い、皆ショパンに冷たくあたりました。
というのも、当時、オーストリアはロシアの同盟国でした。
なので、ワルシャワ市民のロシア軍に対する反乱をよく思っていない人が多かったのです。
そこで、ショパンはウィーンを離れ、フランスのパリに行くことを決意しました。
ウィーンでの演奏会はできなかったショパンですが、作曲活動に関しては精力的に行っていました。
このウィーン滞在時に作った曲が「連作 12の練習曲」「練習曲 第3番 ホ長調 別れの曲」「練習曲 第5番変ト長調 黒鍵」などです。





